Masuk「あのね、みんなに報告があるんだ」
朝食の席。みんなが揃ってるときに昨日の夜により姉に相談したことを打ち明けることにしたわたしは緊張しつつも一気に告白した。
「じつはね、女性ホルモンが多く分泌されるとまれにあることらしいんだけど、わたし、胸が出てきてブラをしないといけなくなりました……」
気持ち悪いとか思われたらショックだなーと思いながら俯いていると一番最初に口を開いたのはひよりだった。
「知ってるよ」
へ?
「ゆきちゃんに抱き着くたびだんだん柔らかいものがあたるようになってきてたからね!やぁらかくて気持ちいいんだ」
その測定のされ方は恥ずかしい!でもだからってひよりにハグ禁止なんて言ったら泣いちゃうだろうしな。せっかくかわいい妹がなついてくれてるんだからそれくらいは我慢するか、お兄ちゃんだしね。
予想外の答えに錯乱。
「わたしも知ってた」
あか姉も!?
「ゆきの服を選んであげる時、最近大きくなってきてたことに気づいてたよ」
あーそれは納得。
「わたしも当然知ってましたよ!わたしのゆきちゃんセンサーに狂いなどありません。今は78のBといったところですね」
昨日より姉と測った数値に完全に一致してる!その見抜き方はちょっと怖いよ、かの姉!あとさらりとサイズを公表しないで!
「なんだよ、気づいてなかったのわたしだけかよ」
まぁより姉は細かいことを気にしない大雑把な性格だからわたしの体の些細な変化にまで気が付かないだろうと思う。
というよりもそんなに目立って大きくなってるわけでもないのに他の姉妹が知ってたことの方が驚きだよ……。太ったりしたらすぐにバレそうだ。
「男なのにブラジャーするとか気持ち悪いって思ったりしない?」
引かれたりしないか心配だったので率直に聞いてみた。
「そんなこと思ったりしないよ!逆にゆきちゃんの美貌にさらに隙がなくなっていくなってうらやましいくらい」
「いよいよ完全体に近づく」
変身していくみたいに言わないで。わたし第3形態とかないよ?
「さすが神が与えてくれた最高傑作です!」
それはいくらなんでも大げさ。
みんな肯定的にとらえてくれてるのでそこは一安心したけど、むしろ私の体がどんどん女体化していくのを歓迎すらしているようでちょっと複雑な気分。自分がだんだん得体のしれない生物になっていくみたいだ。
「ブラはいつ買いに行くの?」
いつも服を買う時は一緒に行ってあれこれと選んでくれる、もはやわたしのコーディネーターと言ってもいいあか姉が質問する。
「今日の講義は午前だけで終わるからとりあえずすぐに必要な分は今日わたしが昼から買ってきとくよ。当面の分だけ買ってくるからまた茜が次の休みにでも一緒に行って選んでやってくれ」
「わかった」
自分の役割を取られるわけではないとわかってあか姉は満足げ。
「ゆきちゃんの初ブラ選びわたしも行きたい!」
ひよりも興味津々といった感じで手を挙げる。なんでみんなわたしの服を選ぶの好きなのかなぁ。しかも今回は下着だよ?照れたりしないのかな。
わたしは恥ずかしくて仕方がないんだけど。
「じゃあ今週の休みに3人で買い物に行こうか」
「わーいたのしみ!」
「腕が鳴る」
週末の予定が決まった。
「あと、昨日は1万人突破の生配信やっちゃったからできなかったけど、今日の動画投稿ってみんな見に来るの?」
緊張の瞬間が去ってどうにか落ち着きを取り戻したので約束していたことを確認する。
「もちろんです」「当然だろ」「もちろん!」「愚問」声は揃ってないけど投票内容は全会一致の模様。
「じゃ、晩御飯食べてちょっとしたら撮影に入るよ。声かけるからみんな揃ってスタジオに行こうか」
今度はみんなそろって「はーい」と元気な返事。弟が歌って踊ってるのを見るのがそんなに楽しみなんだろうか?まぁひよりは昔から収録を見学するのが大好きだったけど。
学校は何事もなく平和に終わった。
さすがにまだノーブラ状態なので胸が大きくなってきたという報告は明日に伸ばした。
そこまではよかったんだけど、事件は家に帰ってから起こった。
今週とりあえずをしのぐためにより姉が買ってきてくれたブラにとんでもないものが混入していたのだ。洗い替えも必要だということでとりあえずシンプルなスポブラ3枚。
これは年齢相応なものだからいいとして。
その横に男のわたしが見ると赤面してしまうようなセクシーな黒と赤のブラが1枚ずつ。上半分透けてるし……。
「より姉、自分の分も混ざってるよ。こんなところに放置してないでちゃんと自分の部屋に片付けておいてよ。目のやり場に困るってば」
ソファに寝転がってテレビを見ていたより姉だったけど、わたしの苦情を聞くなり起き上がってこちらに向けたのは満面の笑顔。
その笑顔からは嫌な予感しかしない。
いやな予感と言うのは当たるものでより姉の口から出てきたセリフは「何言ってんだ、全部ゆきのために買ってきたんだよ」
オーマイゴッド。
やはり頼む相手を間違えてしまったのだろうか。当の本人は実に嬉しそうな顔をして「試着してみてよ」なんて吞気なことを言っている。着るの?これを?わたしが?
「イヤイヤイヤイヤイヤ、気は確かですか?わたしまだ13歳の男子中学生ですよ?このデザインはいくらなんでもないのではないでしょうか……」
思わず敬語になってしまったが、より姉はというと本気で何を言っているか分からないというような怪訝な顔をしている。
その表情をしたいのはこっちだよ。
いわく、学校には派手なのをつけていくと校則違反だとか言われそうだから地味すぎるくらいのを選んだけど、プライベート用はしっかりオシャレしないと、とのこと。
いや、オシャレどころかもはやエロイんですけどこの2点。
「オシャレしないとってとこまでは理解できるけど、だからといってなぜにここまでセクシー下着をチョイスしたのかがわからないんだけど」
というわたしの常識的なはずの質問に対する答えは「ゆきに似合うから」という実にシンプルなもの。どう考えたら中学生に似合うという考えに至るのかは理解しがたい。
ここはいつもわたしに年相応な服を選んでくれている常識人であるあか姉に助けを求めるしかない。
「あか姉からも何か言ってやってよ。これはいくらなんでもわたしには大人すぎると思うでしょ?」
あか姉とひよりはさっきからわたしとより姉のやりとりを無視して問題のブラを手にして何も言わずに考え込んでいる。きっと呆れているんだろう。2人はわたしの味方だよね?
「似合う」
たった一言で裏切られてしまった。一番頼りにしていた人が賛成派に回った焦りで膝から崩れ落ちそうになるのをこらえて、なんとか説得を試みる。
「あと何年か経てば大丈夫かもだけど、さすがに中二でこれは早いと思わない?」
「ゆきはあどけないところもあるけど、雰囲気が大人びてるから下着はこれくらいのを着ていても何も違和感がない。」と言い切られてしまった。
ジーザス。
絶望に突き落とされそうな気分のわたしに追い打ちをかけてきたのはさっきまでずっと静かだった最愛の妹だった。
「ゆきちゃんがつけてるのを想像してみたけど、絶対似合うと思うよ!てゆーか1回つけて見せてよ!」
あぁ、なんて純真無垢で己の欲望に素直な提案なんだろう。きみの目の前にいるのはれっきとした男でお兄ちゃんなんだよ?
すこしくらいは心情を忖度してくれてもいいんじゃないのかね、妹よ。
しかしここにきて賛成派がすでに3人。
かの姉が帰ってきてないからまだ3対2になって最終的に両親の大人な意見で逆転できる可能性もある。でも現状反対派はわたし1人のみで圧倒的に不利な状況。
さらにひよりの発言によってなにはともあれ1回試着してみないとわからないという結論に至ってしまっている。
はじめてスカートをはいた時の事を思い出した。あの時は家族全員一致で似合うという結論が出てわたしのクローゼットにスカートが追加されていくようになってしまったのだ。
つまりこうなってしまうと逆らえない。
早く来てみろと姉たちに急かされるまま脱衣所へ例のブラと共に押し込まれてしまった。
しばし逡巡のあと、男なんだから上半身の裸を見られたってどってことない!これはネタなんだ!と自分に言い聞かせて正気へ戻る前に一気に着替えてしまった。
「着替えたよー……」
着替えるまではできたがここからさらにそれを姉妹の前で披露するという難関が待っている。
いくら開き直ったところで恥ずかしいもんは恥ずかしい!しかし悩んでる時間はわたしには与えてもらえなかった。
ドアノブを握って固まっていたところにより姉が容赦なく乱入してきてあっという間に連れ出されてしまった。
「うひゃあぁぁぁぁ!」
女の子のような悲鳴を上げて胸を隠して座り込んでしまった。
反応が完全に乙女やん。
妹も見てる前で兄としてこれではメンツがたたない。なんとか立ち上がり、隠していた腕を離したけどつい恥ずかしくて手を前で組んで少しでも隠そうとしてしまう。
顔から火が出そうなほどの羞恥に耐えながら披露したわけだけど、自分から感想をきくなんてできるわけがない。そのまま固まっているとひよりが感極まったかのように叫んだ。
「めちゃくちゃ似合う!大人っぽくてセクシーだよ!ゆきちゃん!」いや、セクシーは求めていないのよ……。
「まさかここまで色っぽくなるとはな、予想以上だぜ」「鼻血出そう」姉2人も悶絶している。
「ゆきちゃんも自分で見てみなよ、ほら!」
とひよりが玄関に置いてある姿見を持ってくると同時にかの姉も帰ってきた。かの姉はわたしの姿を見るなり明らかに目の色が変わってしまって、「あらあらあらあらまぁまぁまぁ!」と完全に興奮していて感想を言う余裕すらないようだ。
あ、これ聞くまでもない反応だ。
これで両親に頼っても逆転することはできなくなった。実のところお父さんはともかくお母さんに関しては絶対賛成派にまわるだろうということは容易に予想できてたんだけど。
家に帰ってきていきなり弟がブラをつけてたら普通の家庭なら家族会議もんになるんじゃないかなぁと意識を遠くに飛ばしながら現実逃避していると、ふとひよりが持ってきてくれた姿見に目が向いた。
腰まで伸びたロングヘアにくびれたウエスト、ヒップから足にかけての曲線も文句なしでまるで雑誌のモデルを見ているかのよう。
そして胸元には大人びた黒のブラジャー。
我ながら思わず色っぽいと思ってしまった。姿見を見て赤面しているわたしを見てあか姉が「ほら、よく似合ってる」と言ってきたので思わず「うん」と答えてしまった。
しまった。自分で全会一致にしちゃった。
こうしてわたしの男としての尊厳と引き換えに、追加法案で出された上と下はある程度合わせないといけないという案も可決され、わたしの下着すらも女体化していくことが決定してしまいました。
翌日朝。「あれ?声が出る」 別に特段低い声が出るというわけでもない。 のどの違和感もすっかり消えてしまっている。 一番わかりやすい変化のはずの喉仏は出てくる気配もなく相変わらず握れば折れてしまいそうな華奢な首のまま。 あれぇ?恥ずかしがり屋さんなのかな? ????の状態のまま、いつものように朝食の用意をしていると両親が起きてきた。「おはよう!ねぇねぇ、最近喉の調子が悪かったから昨日病院に行ったでしょ?そしたら声変わりって言われたんだけどわたしの声ってどう変わった?自分ではよくわからなくて」 2人とも黙って聞いていたが、わたしがそう尋ねても顔を見合せ首をかしげるだけ。「どこが変わったのかわからないんだが……」 やがてお父さんがポツリ。「本当に声変わりだったの?喉仏も出てないじゃない」 お母さんも。 2人に声を揃えてそう言われるとますます自分ではわからなくなる。「でもお医者さんには声変わりですねってはっきり言われたんだけどなぁ」「まぁ様子を見てれば?そのうち本当に声が低くなっていくかもしれないし」 呑気だな。それにしてもそんなあいまいなものなの?声変わりって。 やがて仕事に出かける両親を見送って、そろそろ姉妹たちを起こしに行く時間。いつも通りより姉の部屋をノックするけど当然朝から返事をしてくるはずもない。 部屋に入りより姉が寝ているそばに寄って声をかける。 それはいいけど、いい加減弟に寝姿を見られることを恥ずかしいと思ったりしないんだろうか、この人たちは。「より姉~朝だよ。起きなさ~い」「ん~ゆき~。いつもかわいい声だぁ」 いつもときたか。 寝ぼけた状態で変わらないって思うなら本当に同じと思っているんだろうな。 そしていつも通り布団に引きずり込まれそうになるのを阻止してさっさと目を覚ましてもらい、質問する。「わたしの声、本当にいつ
そして夏休みも半分以上が過ぎた盆明けの頃、わたしの体にもうひとつの異変が起きた。 なんと声がでなくなってしまったのだ。 完全に出ないというわけではない。 でも風邪でもひいたかのようなかすれ声。ただ他には症状が何もなく、熱があるわけでも咳が出るわけでもない。 ただ単にのどがいがらっぽく声が出にくくて、無理に出そうとするとかすれてしまうというだけの症状。 不調はどこにもないからのど飴でも舐めていればそのうちよくなるだろうと高をくくっていたら症状が数日続いてしまい、動画投稿ができないという事態になってしまったのでさすがに病院へ行くことにした。「あー声変わりですね」「へ?」「だから声変わり。中学2年生だよね?たいてい身長が急激に伸びた後に声変わりすることが多いんだけどね。その様子からするともう身長の方は頭打ちかもしれないね」 わたしにとって衝撃的なことを告げ、人の気も知らず朗らかに笑う医師。 このことは2つの意味でショックだった。 まず、声変わりして今までのような声が出なくなったらどうしようというショック。 ただこれに関してはいずれ起きうることと想定していたので、変わってしまった声質に合わせた曲を作ればいいだけなので対処のしようはある。 今までの声が好評だったので声変わりをして人気が落ちてしまったらどうしようかという不安はあるけどこればっかりはどうしようもない。 男性の声質に合わせたボイトレを勉強しなおさないとな……。 声のことはそれでいいとして、それ以上にショックだったのが身長の件だ。 これ以上伸びない!?夏休み前の身体測定で2cm伸びて155cmとなりまだまだ可能性はあると喜んでいたのに! 160にも届いていない現状でまさかの最後通告をされてしまうなんて……。 ショックから立ち直れないまま家に帰ると、みんな心配してくれていたようで全員揃ってお出迎えしてくれた。そして沈んだ表情のわたしを見てみんな大
チャンネル登録者100万人突破という目標を達成してとりあえずVtuber活動にも一区切りがつき、時間的にも余裕ができていたのを目ざとく察知したひより。 お兄ちゃん大好きを公言するひよりがそのチャンスを逃すはずもなく、どこかに遊びに行こうとせがまれた。 スケジュールにも空きがあるので遊びに行くこと自体はいいんだけど、問題は提案されたその行先。 せっかく夏なんだから海に行きたいと声を揃えて提案されたものの断固拒否。 あまりにも強く拒否をしたものだから、理由をしつこく問いただされてしまう。 恥ずかしいから言いたくなかったんだけど、さすがに誘いを拒否したうえに黙秘と言うわけにもいかず渋々理由を告げると全員に大爆笑されてしまった。 笑い事じゃなく本気で恥ずかしいんだからね! その理由はさらに胸が大きくなってしまったというわたしにとっての衝撃的事実。前に買ってもらったブラがかなりきつくなっていたのだ。 そんなことなかなか言い出せず黙って苦しい思いに耐えていたんだけど、姉妹たちに自白したらさっそく新しいものに買い替えるためにもサイズを測りに行こうという話に。 案の定Cカップにサイズアップ。まぁわかってはいたんだけど……。 そして当然のごとく選ばれるフリフリの付いた下着たち。あぁまた女体化が進行してしまう……。 さらに成長してしまった胸をひっさげて人の多く集まる海やプールにおもむいて衆目にさらすことに対しどうしても恥ずかしさを拭うことができないので、今年はわたし抜きで行ってくれるようお願いした。 でもわたしがいないとつまんないという理由で結局今年は誰も泳ぎに行かなかった。4人で行ってくればいいのにと思ったけど、わたしがいないところでナンパ男にちょっかい出されるのも不快だから結果的にはよかったかな。 その代わり少しでも涼しいところへ遊びに行こうということで水族館巡りをすることに。 近場の水族館に行った後、ジンベエザメを見たいということで関西まで遠征したりもした。 楽しかったけどよく考え
忘れていた。というより忘れたままにして何事もないように過ごしていたかった。 だけどそういうわけにもいかず、とうとうその日を迎えることになってしまう。 プール開き。 来週からいよいよプール授業が始まる。どこの学校にもある行事だろう。 楽しみにしていたという生徒も多い。 無料でプールに入って涼めるのだから日本の暑い夏を過ごすのにこれほどありがたい授業は他にないだろうとも思う。 だけどそれはあくまで一般生徒にとってのお話。いや、わたしも一般生徒だけれども。 ただわたしには決して忘れてはいけない特殊な事情がある。 この無駄に膨らんだ胸だ。 どうすんだよ、水着。 もちろん男子と同じ下だけというわけにはいかない。 かといって女子用のスクール水着だと股間が大変なことになってしまう。 いっそのことずっと見学ということにしてもらおうかと思ったが、ズルをしているみたいで心情的にイヤだし、クソ暑い中水遊びに興じるクラスメートをただ眺めているだけというのもなかなかに拷問チックな絵面。 学校には校則と言うものがあるので、より姉が主張するように好きな水着を一人だけ着させてもらうというわけにもいかないだろう。 というわけで担任の瑞穂先生に相談しているのだけど、なかなか妙案と言うのは浮かばない。 職員室のパソコンで水着を検索しているのだけど出てくるのはより姉が見たら喜びそうなかわいいものばかり。『学校 水着』で検索すれば出てくるのはスクール水着のみ。これもう詰んでない? ちょうどその時、2年生の体育を担当している船越清美先生が授業を終えて帰ってきた。「瑞穂先生に広沢さん、2人揃ってパソコンにかじりついてどうしたの?」「広沢さんの水着を探しているのよ。ほらこの子、男の子なのに胸が出てきちゃったでしょ?それで学校指定の水着では男女どちらのものを着ても問題があって……」 さすがに職員室の中なのでバストや股間と言ったセンシティブな単語は避けて話してくれてはいるけど、自分の
翌日、週初めの学校では彩坂きらり×YUKIコラボの話題で持ちきりだった。「すごくよかったよね!」「歌も当然だけど2人の掛け合いも息が合っていて面白かった」「ほんとあの2人の歌唱力は抜群だよね」「プロの中でもあの2人より上手い人なんてなかなかいないんじゃないか」聞こえてくるのは好評の声ばかり。少し面映ゆい。「あの2人と同じくらい歌が上手いプロって言えば岸川琴音くらいじゃない?」 その名前を聞いて思わず体がピクリと反応してしまった。幸い誰にも気づかれていなかったけど、懐かしい名前を聞いたもんだ。 岸川琴音。ピーノちゃんの名前が売れすぎて陰に隠れてしまっていたけど、2人で踊るふわふわダンスの相方だった人。 わたしが引退した後は子役から歌手に転向し、今では押しも押されもせぬトップアイドルの歌姫。歌だけじゃなくダンスのセンスもあるのだけど、「ダンスはピーノちゃんとしか踊りません」と封印してしまい今はその抜群の歌唱力のみで歌姫として芸能界に君臨している。「怒ってるんだろうな」 もともと引っ込み思案で子役たちの中でも目立たない存在だった琴音ちゃん。ピーノちゃんの番組が始まるときに「この人と歌いたい」と言って歌の世界に引きずり込んだのは他ならぬわたしだ。 その張本人が突然理由も告げずにいなくなってしまったのだから残された琴音ちゃんには恨まれて当然だろう。 わたしが素顔の露出を躊躇してしまうもうひとつの理由であったりもする。 でも逃げ回っていても仕方ないし、不義理をしたままなのもイヤだ。来年素顔を出したときにはこちらから連絡を取って素直に謝ろう。 連絡先知らんけど。 今はまだVtuberとして素顔を隠しているので、子役のこと含め正体を明かすわけにはいかないけど、これも素顔をさらすときに覚悟しておかないといけない課題のひとつか。「ゆきも岸川琴音は知ってるでしょ?」 ふいに穂香が話題を振ってきた。今まさに考えていたことを突然降られて少し動揺してしまったけど、気持ちを落ち着けて何食わぬ顔で返答する。「もちろん、日本の歌姫って呼ばれてる
午前中は別の用事で潰れてしまったけど、午後からいよいよ家族そろっての東京観光だ。 まず、東京に来たらここでしょうとばかりに向かうはスカイツリー。新しくできた東京のランドマークと言うことでやっぱり人が多い。人ごみをかき分けるようにして展望台の中でも一番見晴らしがいい場所までたどりついた。「おぉ、たけー」 ……だよね、それ以外に感想なんて浮かばないし。 夜景とかだったらキレイーとかあったかも知れないけど、残念なことに時間は昼でしかも天候もくもりだったのでそんなに遠くの景色まで見えない。富士山も見えない。 それにしても感想が「高い」だけというのも少し感性が低いのかなって不安になる。歌い手には感性が命なのに!「おーたっけーな」「うん、高い」「ほかに感想は出てこないんですか」 どうやらみんな似たようなもんらしい。ちょっと安心。 いつも元気なひよりはというと、実は高所恐怖症で展望台の中心部分から一歩も動かず決して端によろうとしない。「こっちおいでよ」と言って誘うと野生動物のように威嚇してくるくらいだから余程怖いんだろう。エレベーターで上がってくるときも目をつぶって何やらブツブツ念仏みたいなのを唱えてたもんな。 でもこうやって何も考えずに景色を眺めるのもたまにはいいかもしれない。 普段は朝からご飯を作ってそれから学校に行き、部活が終わって家に帰るとまた晩御飯を作って食事が終わったら少しの時間家族と会話してそのままスタジオにこもって曲の収録やらダンスの練習をして収録、動画投稿。終わったら後はお風呂に入って宿題をやって眠るだけ。 休日も3食作る以外はスタジオにこもりきりと言っていい状態。 そんな有様だからこうやってゆっくり何もしない時間を楽しむというのも久しぶりの事だ。 これはこれでリフレッシュになるだろうから、これからは意識して何もしない時間と言うのを作っていった方がいいかもしれない。 人間何かに忙殺されてしまうと視野も狭くなってしまうしね。そういえば最近は星空もゆっくり眺めることができていないな。 スカイツリーから出てくるとひよりも復活して、これからが本番だと張り切っているので何をするのかと思いきやショッピング。「ここからはゆきちゃんが主役だよ~」 ひよりの言う通り家族がそろい、そこにわたしもいるということはいつもやることが決まっている